こんにちは、HACOメンバーです。今日は柳川市が長年にわたり市をあげて、時には地道に時には派手に招致活動を続ける大河ドラマに関して、ブログを通して少しでも多くの方に知ってもらえればと思い紹介します。
主役になるのは、今日の柳川の礎を築いた柳河藩(立花藩)の初代当主・立花宗茂(たちばなむねしげ)と妻である立花誾千代(たちばなぎんちよ)の2人です。本日のブログではこの2人の魅力に迫りたいと思います。
立花宗茂の魅力とは?
立花宗茂・誾千代の2人は歴史的に見て非常に珍しい経歴を持っていることをご存知でしょうか。
立花宗茂は、関ケ原の合戦で豊臣秀吉に恩義があり西軍豊臣方の武将として参戦し敗れます。結果、天下人となる徳川家康から改易(武士の身分をはく奪)をされ浪人の身となってしまいました。
しかし、彼の実力を認める徳川家康の家臣の懇願により、幕府の「御書院番頭」(実質的に徳川家康の親衛隊長)に抜擢。その後「大坂冬の陣・夏の陣」に参戦して徳川方の勝利に大いに貢献します。その結果、徳川幕府より旧領柳川10万9,200石を与えられ、名実共に大名に返り咲いたのです。
関ヶ原敗軍の将の中で唯一、旧領に復帰を果たした大名であり、その後の柳川の礎を気づいた人物だからこそ柳川市民に愛されるお殿様なのです。自分の生き様で周囲を惹きつける人物とは、今も昔も「折れずに自分の信念を貫ける人」なのでしょうね。
宗茂の妻・立花誾千代の魅力とは?
立花誾千代の「誾」の漢字は、普段、あまり目にすることのない漢字だと思います。父親が命名する際、高僧に相談し「和らぎ慎む」「慎み人の話を聞く」と言う意味合いで、「誾」の字をあてて誾千代姫と名付けたとの記録が残っているそうです。
誾千代は7歳の時、正式な手続きにて立花家の家督を譲られました。「7歳で女性が家督を相続」するのは、ほぼ例がありません。スゴイ!の一言です。勿論、政治の上でのことではあるでしょう。しかし、当時の時代背景や女性の社会進出を考えると、人望がなければ反対の声が大きく実現しなかったのではないでしょうか?
そして誾千代が数え年13歳の時、2歳年上の弥七郎統虎(やしちろうむねとら、後の立花宗茂)を立花家の婿に迎える形で2人は結婚します。
時は流れ関ケ原の戦いで西軍(豊臣方)が敗れ、夫の立花宗茂は敗走します。知らせを聞いた立花誾千代は戦いの支度を整え救出に向かいました。そして筑後川の辺で疲れ切った立花軍を発見、立花宗茂を無事に柳川城まで連れ帰ります。さらに誾千代は甲冑(鎧兜)を着て出陣し、海上から来襲した肥前国(佐賀県・長崎県)の鍋島軍を撃退。
開城の説得にやってきた肥後国(熊本県)の加藤清正(かとうきよまさ)率いる2万の兵の前に立ちはだかります。立花誾千代の雄々しさを「さすが立花山の女城主」と称えた、加藤清正は「自軍の兵をみすみす損ねることもあるまい」と迂回路を通って引き返したと伝わります。
立花宗茂・誾千代が祀られる三柱神社
父親:立花道雪(たちばなどうせつ)、夫:立花宗茂、妻:立花誾千代は三神として三柱神社に祀られており、地元、柳川市の人々や多くの観光客から参拝をされています。
スポット情報
スポット名:「三柱神社」
所在地: 福岡県柳川市三橋町高畑323−1
電話番号:0944-73-8111
営業時間:8:00~17:00(社務所の業務時間)
駐車料金:有料
立花宗茂・誾千代を大河ドラマで躍動させたい理由
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、三人三様に天下を狙い、一人は志半ばで謀反に遭い倒れました。もう一人は天下を手にしましたがそこで命尽き、残る一人は260年に及ぶ太平の世の土台を築きましたよね。今日でも三人は、「組織の長たる者とは?」、「人の上に立つ者の処世術!」などとして何かと語られています。
同様に武家の世、特に戦国の世では、天下人にこそならなかったものの文武に優れ人望があった武将が他にもいたはずです。一国の城を構え、自分の家臣や領地の人々のために奮闘し続けた人物、私利私欲でなく領地の繁栄を思い続けた人物…。
そうしたことを考えると、改めて地元・柳川の土台を築いた初代藩主である立花宗茂に興味を持ちました。こんなに身近に、こんなに誇れる人物がいたのだと思うと、もっと立花宗茂のことを知ってもらいたい熱い欲求が自然に湧いてきたのです。このブログを通してその思いを発信することで、微力ながら招致運動をしている方々の力になれればと思い立花宗茂・誾千代の魅力ご紹介させて頂きました。大河ドラマ招致の成功を心よりお祈りしております。
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